月輪と星の宮
そこは小さな小さな世界の中。
奇妙な道を通り抜けて偶然辿り着いた先のとても窮屈なその場所に、彼女は居た。
真っ白で無機質な部屋。
ベッドの上に力なく横たえられた身体。
……よっぽど退屈していたのだろう。
その場所の主は予想外の訪問者に驚きこそすれ、追い返すなんて事はせず、寧ろ熱烈に歓迎してくれた。
まるでずっと欲しかった玩具を与えられた子供のように目を輝かせて、彼女は話を聞いてくれた。たまらなく嬉しそうに。
…くだらない話だ。
彼は旅人だったから、旅先で見た景色がどうだっただとか、珍しい動物が居ただとか、そんなありふれた退屈な話。
けれど、彼女は時には微笑みを交えて相槌を打ち、時には驚きに目を見張りながら、彼のつまらない話を真剣に聞いてくれた。
そして彼がいかに世界に拒まれているかを知ると、居場所などないと呟いたその手を震える手で取り『私が貴方の居場所になる』と言い、ぎこちなくだが優しく笑いかけてくれた。
居場所。
それは彼が密かにずっと求めていて、けれど自分には与えられないと諦めていたもの。
***
その一言に彼は救われた。
きっと、それが全ての起点。彼が全てを棄てた理由なのだろう。
そして物語はゆっくりと、しかし確実に動き始める。
最哀の至悲宝、『月の輪』を巡って。
深海姫
周囲を透明な壁に囲まれた四角い空間。
青い家具に囲まれ、彼女はそこで暮らしていた。
体外性気圧異常症。
またの名を『深海症』
この病にかかっている者はいちじるしく少ない。
原因は謎で治療法も謎。そんな希少にして奇怪な病であった。
大概の患者の場合、何時から何故その病気にかかったのか不明だが、この場所にいる彼女は違う。
他の患者とは何もかも違う。
齢5つにしてかかった……いや、沈んだというべきかもしれない。
ある夏の事。
退屈しのぎに遊びに出た彼女は供の言うことを聞かず、高い崖の上から落ちることになる。
奇跡的に大した怪我はなかったものの、それから彼女はおかしな錯覚に陥るようになったのだ。
深い、深い海の中。
虚ろな深海。
闇の中に取り残され、独り底の無い暗がりに落ちていく感覚。
やがて思い出したように身体が水圧を感じ始めるのだ。
孤独に震える彼女に追い討ちをかけるように、重くのし掛かってくる圧力。
剥き出しの肌に突き刺さる氷のような水の感触。
冷たい。苦しい。怖い。寂しい。
悲鳴をあげようにも声が出ることはなく、ただ虚しく口が動くだけである。
いつも突然現れては消える、そんな幻影に彼女は苦しめられ続け…徐々に壊れていった。
それからだ。
彼女が世界に溺れていく事になったのは。
彼女はその場所から出ることは許されない。
何故なら特殊な調整がされた硝子の壁から外に出ればたちまちに、彼女は壊れてしまうのだから。
*水槽の姫君は夢を見る。
深い海に沈む前、優しかった世界の夢を。
『この世界が私の全て。他には何一つありません』
凍った瞳。
それは、彼の瞳に、心に焼き付いた記憶。
地面に転がされ、既に動かなくなった父の骸。
幼い自分を逃がすために身を投げ出し、粗末な槍に貫かれた母の絶叫。
『……おっと、逃がすわけにはいかない』
そして母の前に立ちはだかっているのは、彼がつい一昨日パンを買いに行った時に温かい笑顔で応対してくれた筈の店主だった。
「…………う…」
『……ひ、ひいぃ………やっぱり化け物だ…この女…急所を刺したのにまだ生きていやがる………!;』
蒼白な顔で声をあげたのは、五日ほど前に訪ねてきておみやげだと彼に本をくれた父の知り合いのおじさん。
『な…何をボサッと突っ立ってるんだい!殺すんだよ!早く!!』
よく甘くて美味しいお菓子をくれた隣のおばさん。
『……今まで私は化け物と接していたのね………なんてことなの!おぞましいわ!!』
綺麗で優しかった近所のお姉さん。
『誰かたいまつを持ってきてくれ!こいつらの死体に火を付けちまうんだ!!』
両親の身体をナイフでめった刺しにしながら叫んでいるのは、兄貴分と慕っていたお兄さん。
亡骸に放たれた火はすぐさま燃え上がり、あっという間に二人を燃やし尽くした。
母が声をあげる間もなかった。
ゆらめく赤い炎が、息を潜め木陰に身を隠していた少年の瞳に映り込む。
ゆらゆらと燃える赤を深い哀しみとともに眺めているうちにふと、彼は疑問を抱いた。
なぜ、このようなことに。
みんな、ついこのあいだまでおだやかでやさしかったはず。
なにがいけなかったのか。
りゅうだと、ひとではないからというだけで?
おれたちかぞくがいったいなにをしたと。
当然その問いに答える者は居ない。
そして、彼のその疑問がゆっくりとどす黒い感情に変化していくのを止められる者も居ない。
やがてその感情は、凍えた殺意へと昇華される。
彼の瞳に映った炎は冷え固まり、それでもゆらゆらと、ゆらゆらと。
それまで黒曜のようだった瞳は憎しみによりじわりじわりと凍りつき、その色を変えた。
どこまでも冷え冷えとした、悲しい青に。
そして彼は木陰を抜け出し、静かに歩き出す。
赤い炎の燃える方へ。
逃げるためでなく、殺すために。
『それなら俺は壊してしまおうか。何もかも全てを』
*青の王、氷の王。
彼はこのあと、宣言通りに全てを壊そうとし、実際にあともう少しで世界が崩壊するというところまでいきかけた。
心の芯まで凍りついた氷の瞳が、一人の女性に対する熱に溶かされることとなるのは、もう少し先の未来の話。
『………ただ、どうしようもなく悲しくて。そして、それ以上に許せなかった』
それは言うなればくだらない嫉妬。
まるで温もりを知らない氷のようだと思った。
どこまでも冷たく、視るものを凍らせる凍てつく青、絶対の青。
確かその瞳に興味を持った事がきっかけで、私は彼についていく事を決めたのだったか。
……しかし今は見る影もなく、その瞳は熱にうかされている。
『………貴方様が恋煩い、ですか。それも一目惚れとは…らしくないですね』
「煩い。口を慎め」
……この男、どうやら部下の忍び笑いに気付かない程に落ち着かないらしい。
…何と言うか、こんなに余裕のない彼の姿を見るのは久し振りな気がする。
あの様子だと、自分が同じところをぐるぐると回り続けている事にも気付いてないのだろうか?……これはちょっと面白いかもしれない。
しばらく退屈しないで済みそうだ、などと思いつつ次に頭に浮かんだのは彼の片恋相手は何者か、という疑問だった。
色恋沙汰にはとんと疎い彼をここまでにする相手とはいったいどこの姫君なのだろうか。
絶世の美女?蠱惑的な妖女?
何にしろ見目麗しい姫に変わりはないだろう。そうでなければ朴念人が早々一目惚れなどする訳がないのだから。
『…………………何故かしら。少し、気に入らないわね』
忙しなく花など選んでいる主をちらりと見やり、
(…あんな姿なんか似合わないのに)
音をたてずに舌打ちした。
*かつての彼を取り戻すため、ただそれだけの為に彼女は謀略を巡らせる。
「…彼がこんなにも焦がれる花など、この手で燃やしてやれますように」
それが恋情だとも、嫉妬だとも気付かないまま。
血濡れた手は誰も欲しない。
ぱたぱたと駆ける音が、しんと静まり返った廊下に響く。
「あにうえ!」
本を大切そうに抱き抱えながら走る小さな娘は、兄の姿を見つけて歓喜の声を上げた。
『どうしたんだ?随分と急いで来たようだが』
兄が聞けば
「あの、あにうえ!ごほんよんでください!」
と、胸に抱えていた本を差し出し、無邪気に笑う妹。
その本のタイトルは"いばら姫"。
「あにうえ!この"おうじ"というかたすごいです!かっこいいです!!」
………。
「わっ!見てくださいあにうえ!"おうじ"さんがわるいりゅうをたおしましたよ!」
…………。
「あにうえ!いまきめました!わたしもこのかたみたいに、いつかだれかをまもる"おうじ"になります!」
……………違う…。
***
『っおるあああぁぁあ!!!!』
「……………っ…!」
耳に飛び込んできた怒声に激しく意識を揺さ振られ、沈みつつあったそれはギリギリで呼び覚まされた。
我に返り、慌てて身体を反転させすんでのところで回避に成功する。
重心を移動させて腕を捻り、相手の頭に重い一撃を放ち仕留めた。
『……っが………はっ……………おまえさえ居なければ……おまえなんか、死んでしまえばいい、んだ…』
相手は怨嗟の声を上げ倒れ伏す。
二度と起き上がる事はないであろう身体を一瞥し、その場から足早に立ち去った。
***
「……危ないところだったな」
重い身体を引き摺るようにして、やっとのことで部屋に帰り着いた。
何故あんな記憶が蘇ってきたのだろう。
しかもよりによって闘っている最中に。
…確かに昔はそうだった。
悪い竜を倒し、姫を救い出した英雄に憧れ、自分もそうなりたいと思っていた。
しかし今はどうだろう?
鏡に映り込むのは慣れた手付きで血を洗い流している姿。
命のやり取りを繰り返した為に返り血にすっかり慣れきった自分だ。
誰かを守れるようになると誓った自らの手で日常的に誰かの命を奪う自分。
今日も、明日も、そしてきっとこれから先もずっと人を殺め続けるであろう自分。
その姿は誰がどう見ても悪役で。 彼女はそんな自分が大嫌いだった。
死に際にあの男が放った一言を思い出す。
『おまえさえ居なければ』
『おまえなんか死んでしまえば』
(俺さえ居なければ。俺なんか死んでしまえば…全てが無かったことになるだろうにな)
それは皮肉な事に、彼女が日頃自身に対して抱いている思いと非常によく似ているのだった。
*誰にも望まれない存在が、誰かを救うなど出来る筈がない。
「…………そんなの俺だって分かってる。分かってるから」
幼い自分の純心でさえ、京羅を鈍い痛みで満たす。