青の王
幸せに生きることは難しい。
それはまさに薄い氷の上を歩くが如し。
いつ壊れるか分からないものを、それでも欲するのが人の性だというのなら。
それは何て哀しいことだろう。
『きっと世界に神など居ない。
居たとしても慈悲はない』
そうでなくてはおかしいのだ。
だってもしそうでないとしたら何故、自分は独りにならなければならなかったのだ。
暗い暗い闇の中、ずっと一人。
その果てしなく長い時間は彼に孤独を痛感させるにはあまりにも十分過ぎるくらいだった。
夢から目が覚めるたび世界を呪った。
とにかく憎くて仕方がなかった。
自分が理不尽に奪われたもの。
それを当たり前のように思い込み、軽んじて居られる幸せな人々が羨ましくて、妬ましくて。
正視する事すら彼には苦痛だった。
だからいっそのこと、と壊そうとしたのに、それすら道半ばで倒れ。
惨めにも穴の中に封じられた。
暴れ疲れてまた微睡むたびもう目覚めたくないと思った。
独りを実感するのは痛かった。
夢でなら彼は孤独な"青の王"ではなく、幸せな"ただの青年"で居られたから。
彼が見る夢はいつも泣きたくなるくらいに優しくて、どうしようもなく彼の夢でしかなかった。
何度も何度も吼えた。
喉が壊れ、自分の血で咽せても構わずに。
いっそこのまま血を流し尽くして死んでしまうなら、それもいいとすら思っていた。
ただただ彼は苦しかった。
その姿は既に異形と化していたしその咆哮は世にもおぞましかったけれど、こころだけは紛れもなくひとのものだったから。
優しい母さん、優しい父さん。
大好きな家族だったんだ。
母は花に詳しく、彼にたくさんの名前を教えてくれた。
父はよく、不器用にだけれど頭を撫でてくれた。
だから彼は花が好きだ。頭を撫でられるのが好きだ。
今でもずっと、好きでいる。
ささやかだけれどとても幸せな日々。
今となってはもう全て過去形でも、彼にとっては変わらない。
家族が彼の全てだった。
ひとならざる者として生きることを強いられてきた彼を守り育て、真に慈しんでくれたのは両親だけで。
他には何もなかった。
他には何も望まなかったのに。
ただひとつの小さな願いすら、世界は簡単に奪い去る。
少年は、自分達が時間をかけて積み重ねてきたものがいともたやすく粉々になる瞬間を見た。
目を何度擦ったところで現実は変わりやしない。
信頼だとか絆なんてものは、実にあっけないものだった。
それを思い知らされるには、彼はまだ明らかに幼な過ぎたのに。
そんな彼に嘲笑うように向けられた敵意。
優しかった彼らからの殺意。
両親の返り血で汚れた真っ赤な手。
笑顔で手招かれたところで、誰が行けるものか。
人の心は単純で不確か。
少年はそんな当たり前の事実を思いもよらぬ残酷な形で知らされ、絶望したのだ。
彼らを引き裂いた後、血濡れた彼は物言わぬ自らの両親を静かに抱き締める。
長い間水すら飲まず逃げ続け、喉がからからで目眩がするような状態にありながら、それでも彼の身体は涙を流した。
その晩彼はかつて両親だった屍と寄り添って眠った。
とても冷たい身体だった。
それは彼がいよいよ身体の芯から凍りつくには十分過ぎるほどの冷たさで。
遂には眠りながら流した涙すら頬を流れ落ちる前に凍る。
それは夜が寒かったからではない。
彼がそうさせたのだ。
小さき竜の子が破壊の竜へと転じたのは、ただただその大き過ぎる愛ゆえにだった。
もしかするとあの時彼を動かしていたのは、激しい憎しみというよりは寧ろ喪失感だったのかもしれない。
……今となっては彼の真実など分かりはしないけれど。
何故なら、かの地に眠るあの竜はもう二度と、目覚めることはないのだから。
***
青の王となったところで、かつて彼が愛された記憶、愛した記憶が消えることはない。
それが彼をこの世界に繋ぎ止める唯一のものであり、同時に破壊へと進ませている全てだから。
彼のこころを覆う氷。
彼自身が分厚く硬く見せているというだけであって、本当のそれは酷く薄くて脆い。
「……手に入れて失ったからこそより飢えに苦しむ。
ならばもう、手に入れようとなど思わなければいいのだと」
そうすれば苦しむことはない。
手を伸ばしすらしていないものを失くしたところで、二度とあの喪失感に支配されることはないだろうから。
その先にはかつてあの日々に感じていた愛しさも喜びも何もないだろうけれど、けれどそれでいい。
…それでよかったはずだった。
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これは青の王の御話。破壊の竜の物語。
そして
『失う事が怖いから、傷付けるのが嫌だから』
そうやって自ら手を伸ばすことを諦めるような
臆病で優しくて、人間よりもよっぽど人間らしい不器用な怪物の本でもある。