血濡れた手は誰も欲しない。
ぱたぱたと駆ける音が、しんと静まり返った廊下に響く。
「あにうえ!」
本を大切そうに抱き抱えながら走る小さな娘は、兄の姿を見つけて歓喜の声を上げた。
『どうしたんだ?随分と急いで来たようだが』
兄が聞けば
「あの、あにうえ!ごほんよんでください!」
と、胸に抱えていた本を差し出し、無邪気に笑う妹。
その本のタイトルは"いばら姫"。
「あにうえ!この"おうじ"というかたすごいです!かっこいいです!!」
………。
「わっ!見てくださいあにうえ!"おうじ"さんがわるいりゅうをたおしましたよ!」
…………。
「あにうえ!いまきめました!わたしもこのかたみたいに、いつかだれかをまもる"おうじ"になります!」
……………違う…。
***
『っおるあああぁぁあ!!!!』
「……………っ…!」
耳に飛び込んできた怒声に激しく意識を揺さ振られ、沈みつつあったそれはギリギリで呼び覚まされた。
我に返り、慌てて身体を反転させすんでのところで回避に成功する。
重心を移動させて腕を捻り、相手の頭に重い一撃を放ち仕留めた。
『……っが………はっ……………おまえさえ居なければ……おまえなんか、死んでしまえばいい、んだ…』
相手は怨嗟の声を上げ倒れ伏す。
二度と起き上がる事はないであろう身体を一瞥し、その場から足早に立ち去った。
***
「……危ないところだったな」
重い身体を引き摺るようにして、やっとのことで部屋に帰り着いた。
何故あんな記憶が蘇ってきたのだろう。
しかもよりによって闘っている最中に。
…確かに昔はそうだった。
悪い竜を倒し、姫を救い出した英雄に憧れ、自分もそうなりたいと思っていた。
しかし今はどうだろう?
鏡に映り込むのは慣れた手付きで血を洗い流している姿。
命のやり取りを繰り返した為に返り血にすっかり慣れきった自分だ。
誰かを守れるようになると誓った自らの手で日常的に誰かの命を奪う自分。
今日も、明日も、そしてきっとこれから先もずっと人を殺め続けるであろう自分。
その姿は誰がどう見ても悪役で。 彼女はそんな自分が大嫌いだった。
死に際にあの男が放った一言を思い出す。
『おまえさえ居なければ』
『おまえなんか死んでしまえば』
(俺さえ居なければ。俺なんか死んでしまえば…全てが無かったことになるだろうにな)
それは皮肉な事に、彼女が日頃自身に対して抱いている思いと非常によく似ているのだった。
*誰にも望まれない存在が、誰かを救うなど出来る筈がない。
「…………そんなの俺だって分かってる。分かってるから」
幼い自分の純心でさえ、京羅を鈍い痛みで満たす。